コメディからSF、更にはミステリーに至るまであらゆる物語を生み出し続け、今年でデビュー15周年を迎えた石黒正数先生。その創作活動の源流となった学生時代やデビュー当時、そして現在は一体どのようなことを考えて漫画を描いているのか?気になることをまとめてお聞きしました!


「気持ちが言葉で説明できたら、漫画にしてませんよね」

大学時代はどれくらい漫画を描いていたのでしょうか?

石黒先生(以下石黒) 僕は大阪芸術大学の出身なのですが、そこにあるCAS(キャス)という漫研に所属していたので、年に一、二回程度そこの部誌に寄稿していました。たまに友達の描いた同人誌にゲストとして描いたりしもしましたが、それくらいです。漫研の部室で漫画を描くということはほとんどなくて、どちらかというと漫画は個人個人が自分の家で描くもの、という認識でしたが、下宿に帰ったところで漫画を描くわけでもなくただ遊んでいました。
とにかく大学生時代は下宿も部室も構内も楽しい事が多く、漫画を描いている暇が無かったように思います。
漠然と漫画家に憧れてはいたので「持ち込みしなきゃなぁ」と思ってはいたのですが、大学生の皆さんならわかると思いますけど、大学生というのは卒業した後のことなんて真剣には考えないものなんです。しかし今でこそ言える事ですが、学生時代に漫画を描いたり読んだりした事よりも遊んだ思い出の方が、現在よほど漫画の肥やしになっています。

大学時代は遊んでいたと仰いましたが、何か印象的なエピソードがありましたら教えてください。

石黒僕が大学に通っていた頃、広い広い学校の敷地の一部に掘りかけのトンネルがあったんですよ。山を筒状のコンクリートが貫通しただけで道路には繋がることなく工事が頓挫した状態のものだったのですが、そこはバリケードで封鎖されていて、入ってはいけない場所でした。ただ学生にしてみれば、そんなの一番ワクワクするスポットじゃないですか。そこである日友達と探検に行こうということになりまして。それで準備をしていたんですけど、当日の朝に紙ゴミの整理をしていたら指をザックリ切っちゃって。そのタイミングで「そうだ!」と思い立ってその辺にあった厚紙に血で魔方陣を描いたら、結構いい感じのものが描けてしまって(笑)。その魔方陣をトンネル探検に行ったついでに中に置いて、その辺のゴミとか集めてそれっぽい祭壇を作ってみたりして。その日は良い祭壇ができたと満足してトンネルの中で弁当を食べて帰ったんですが、その一ヶ月後あたりに一緒に探検に行った友人から「お前、エラいことになってるぞ!」という電話が掛かってきまして。話を聞いて調べてみるとネット上の掲示板に「何か儀式をした跡がある」「肝試しに行った友人が帰りに事故に遭った」などなど、何のいわれも無いトンネルの筈が自分のいたずらのせいで心霊スポットに変わってしまったとのことでした。その時の経験と似た話を『それ町』にも描きましたね。

大学生を描いた作品、という意味では『ネムルバカ』が思い出されます。

石黒『ネムルバカ』は二十代の頃に描いた作品なのですが、これは二十代の頃にしか描けない作品だったなあ、と思います。当時確かに所謂「あーちすと」への不信感は持っていましたが、実際のところ自分も大学時代は何もしていなかったので「あーちすと」側の人間だったはずで、結局どこからの目線で描いたものなのやら(笑)。ただ、(『ネムルバカ』に登場する)ルカ先輩の言っていることが作者の視点と誤解されがちですが、もう一人の主人公である入巣が持っている漠然とした不安や、主人公の他に登場する男二人の考えも当時の僕のものなので、おおよその大学生の思考パターンを4人のキャラクターにしたもの、というわりと引いた目線を持って描いた認識があります。
(『ネムルバカ』のページを開いて)今たまたま開いたけど、この酔っ払って自動販売機の脇で入巣がゲロ吐いてる隣でルカが無力感を抱えるシーン。このシーンは結構感情的に描いたんですよ。この誰も通らない夜の道で「誰も俺のことなんて知らねえんだ」という感じ。僕がデビューした頃に覚えていた感覚なんですけど、デビューしたはいいものの次のネームは通らないし、大学卒業は目前、卒業したら無職同然。焦燥感と圧倒的な無力感。何て言えばいいんですかね、背中にギターは背負っているけど、誰も知らない、誰も彼女のことに気付かない、この感じ……。説明できたら漫画にしてないんですけど(笑)。

連載作の他にも様々な雑誌で読み切りを描かれていますが。

石黒アフタヌーンでデビューした後に一年くらい連載用のネームを描いていたんですが、そう簡単に通らないわけですよ。だからネームを描きながら他の出版社にも投稿していたら、そのうちコミックフラッパーに目をかけてもらうようになったんです。その頃フラッパーでは新人同士同じテーマで共作させるような面白いこともしていて、読み切りが雑誌に載ったら奇特な読者さんから徐々に支持を得て。一年半くらいでしょうか、毎月読み切りを描いていた時期がありましたね。僕の短篇集に載っているフラッパー初出の作品はみんなその頃のものです。

そういえばパチスロ誌で描かれていたこともありますね。

石黒あれのためにスロットを打ちに行って一万円勝ちました(笑)。パチスロ誌に描いたのは『それ町』が始まってからなんですが、あの頃は楽しかったです。今も楽しいけれど、「辛かったんだけど、今思うと楽しかった」という話です。
僕は東京に出るときに結婚したのですが、奥さんと一緒に二人で『それ町』に出てくるような八百屋の二階に暮らしていたんですよ。当時はほとんどその日暮らしの状態で、「そろそろバイトをしないと飯が食えないな」と思ったタイミングでフラッパーから読み切りの誘いが来て、原稿料をもらって「じゃあバイトを探しに……」と思った矢先にまたフラッパーから電話がかかってくる、という生活が続いていました。連載ではないので気楽ではあったのですが、ただ生活は本当に厳しかったです。昼食が下の八百屋で買ってきたバナナ一本、なんてこともありました(笑)。若いからこそできた生活ですね……。他には八百屋で安売りされていたちくわをザクザク切って小分けに冷凍して、肉の代わりに野菜と一緒に炒めて晩御飯にするとか。ちくわからダシが出て旨いんですよ。肉の代用としては疑問ですが(笑)
厳しい生活だったんですが、今思うと「生きてた」なあ、という感じがしますね(笑)。

『木曜日のフルット』に登場した汁無し麺もその頃のものでしょうか?

石黒汁無し麺は大学生の頃ですね、あれはあれで一袋100円くらいするのでかなり贅沢な部類です(笑)。『ネムルバカ』に出てきた天かすだけの天丼も学生時代の創作料理ですが、後に奥さんに食べさせたら好評でした。

話が少し逸れましたが、その読み切りを描いていた時期に培ったものというのはありますか?

石黒この短編を描きながら食いつなぐ生活をしている頃に、ようやく自分の漫画の描き方がわかったな、という手ごたえを感じました。当時のフラッパーの担当がTさんという方だったんですが、その人が読んで面白い漫画を描こうと思って描いているうちに何かわかってきたような気がして。日常から若干ズレた感じ、と言うんでしょうか。SFにしてもホラーにしても、あるある感が出る雰囲気というか。
あとは読む人にわかりやすく描くというのを強く意識するようになりました。担当が目の前で自分のネームを読むのですが、話やシーンがわかりにくいとページを戻すことがあるんですよ。首を捻ったり、眉をしかめたり。それが僕にとってすごく嫌だったので、一発でわかるようなネームを描こうと努力するようになりました。『ネムルバカ』にも通ずるところがあるけれど、大学生の頃に描いた漫画というのは身内が否定しないんですよ。批評という概念がない。これがプロになるとまず担当によって評価されるようになりますよね。その評価の中で悪い部分を突かれないようにしよう、更に意表を突いてやろう、笑わせてやろう、と試行錯誤して行った感じです。